2009-07-29 [Wed]
パンク
発祥が1970年代中頃のロンドンだということを初めて知った。そして日本で流行が再び始まったのが1990年代だという。自分もメタルでROCKな感じが好きでなんとなく「パンクっぽい」服を好むのだが、その感性は古いのではないかと不安を感じた。しかし、このストレス社会の中どうして皆犬のように吠えないのか?私からすると不思議でしょうがない。社会ではしっかりやって行かなければ現代では生きていけない、またそのストレスにより自殺者は増加する、そのジレンマの抜け口はどこかで暴れ回るのが一番良いと思う。誰にでも「衝動」というモノがある。人間も動物の一部であり、理性も脳の機能の一部でしかない。人間であろうと脳の面積を占める割合は理性より本能の方がはるかに大きい。泣いて、笑って、叫んで、そういう意味の無い行為が私は好きでしょうがないのだ。野性的なものへの憧れは永遠だろうと思う。
ただ、そこで発散し切ってもまたしょうがないというのが私の考えだ。不満はバネに成り、やり場の無い怒りは暴れまわるしかないが、やり場のある怒りは違う。私が暴れまわるのは自分の反省の記録をし、より冷静に成り、次のアクションを起こすためである。本当の子供というのは悲しみを怒りに変えることが出来ず、ただ泣き続けるだけである。そういう意味である意味暴れることは大人しか出来ないことである。後は矛先をどこに向けるかである。街で暴れまわるならただのチンピラだが、暴れる場所によってはまた話が違う。一度道を踏み外して再起した後、大きな業績を残す例は少なくない。それほどまでに「野性」というのは驚異的な力を秘めてる。飢えて、一度絶望を知った人間ほど強い者はない。
問題は破壊欲を創造欲に変える、首を曲げる腕の力である。困ったことに最近私は物を創るより壊す方が性に合ってるのではないかと思い始めてるが。それはそれとして、独自のスタイルを創るのが大事かと思う。自分の有り余ってる力をなんとか良い方向に出せないか?そういうことを真剣に考えてる。その内日本の総理も元ヤンだったりするのではないかと思う。汚れや失敗まみれの人間の方が綺麗に育って来た人間よりはるかに共感も出来るし信頼も出来、何より応援したくなる。そう汚れや埃は人を惹きつける魅力に成るのだ。
発祥が1970年代中頃のロンドンだということを初めて知った。そして日本で流行が再び始まったのが1990年代だという。自分もメタルでROCKな感じが好きでなんとなく「パンクっぽい」服を好むのだが、その感性は古いのではないかと不安を感じた。しかし、このストレス社会の中どうして皆犬のように吠えないのか?私からすると不思議でしょうがない。社会ではしっかりやって行かなければ現代では生きていけない、またそのストレスにより自殺者は増加する、そのジレンマの抜け口はどこかで暴れ回るのが一番良いと思う。誰にでも「衝動」というモノがある。人間も動物の一部であり、理性も脳の機能の一部でしかない。人間であろうと脳の面積を占める割合は理性より本能の方がはるかに大きい。泣いて、笑って、叫んで、そういう意味の無い行為が私は好きでしょうがないのだ。野性的なものへの憧れは永遠だろうと思う。
ただ、そこで発散し切ってもまたしょうがないというのが私の考えだ。不満はバネに成り、やり場の無い怒りは暴れまわるしかないが、やり場のある怒りは違う。私が暴れまわるのは自分の反省の記録をし、より冷静に成り、次のアクションを起こすためである。本当の子供というのは悲しみを怒りに変えることが出来ず、ただ泣き続けるだけである。そういう意味である意味暴れることは大人しか出来ないことである。後は矛先をどこに向けるかである。街で暴れまわるならただのチンピラだが、暴れる場所によってはまた話が違う。一度道を踏み外して再起した後、大きな業績を残す例は少なくない。それほどまでに「野性」というのは驚異的な力を秘めてる。飢えて、一度絶望を知った人間ほど強い者はない。
問題は破壊欲を創造欲に変える、首を曲げる腕の力である。困ったことに最近私は物を創るより壊す方が性に合ってるのではないかと思い始めてるが。それはそれとして、独自のスタイルを創るのが大事かと思う。自分の有り余ってる力をなんとか良い方向に出せないか?そういうことを真剣に考えてる。その内日本の総理も元ヤンだったりするのではないかと思う。汚れや失敗まみれの人間の方が綺麗に育って来た人間よりはるかに共感も出来るし信頼も出来、何より応援したくなる。そう汚れや埃は人を惹きつける魅力に成るのだ。
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2009-07-29 [Wed]
デザインとデッサン
「真の芸術家は手を動かしながら考え、頭を使いながら描く」。それが出来る人の偉大さを改めて思い出す。私の場合どちらか片方に集中する、というよりもっぱら手だけでそれらしく描いてしまう。描けてしまい、さらに描いただけで満足してしまうタチがある。この辺は実際自分が美術系の仕事をやってく上で「感じる力=感覚=センス」が無いと認めてる。デッサン上手く描ける奴らは揃って満足しない、常に上だけ見て飢えてるような姿をしている。アトリエの画家やってる先生が言うには「8割方完成しかけたところで躊躇無く全部消して描き直せる奴は天才だ。」「僕は自分で描き始めて十秒で完成像が見えて、退屈に思えるから天才だ」という。デザインという仕事上は期限が有り、それに対しての妥協、「2割の力で8割の結果を出す」ようなやっつけ方が求められる。しかし、それに際限の無いアーティストという生き物に対し私は畏怖を感じずにはいられない。
感覚を鍛えることは上達に必須だ。しかし、それだけではなく手の技術が追いつかないと上手くならないので、「とにかく枚数描け」というのは手を鍛える上で有効だし、地道なパースレーションによる賜物である。ならば感覚の方はどうだろうか?それは本当に「才能」以外無いのだろうか?答えは否、本当に全てが才能に依るものであれば「美術大学」など存在する意味が無い、元々才能ある者が専門学校で技術だけ取得すれば済む話だ。感覚というのは変化する。変化するからこそ絵が変わる。しかしそれが必ずしも良い変化とは限らないし、最終的には受け手の好み・時代にウケるかどうかという所まで落ちる。だからこそ生活環境・人付き合い・その他様々な経験から自分の感覚を変化させ、その中で手を同時に動かし作品を産みそれを世に出し、その反響しだいで試行錯誤していくことで才能の壁は越えられる。ある程度の実践を積めば感覚的に「コレはウケる/ウケない」のだいたいの見通しがついて、それが見え始めるのが「プロとしてのスタート」だと思う。
「真の芸術家は手を動かしながら考え、頭を使いながら描く」。それが出来る人の偉大さを改めて思い出す。私の場合どちらか片方に集中する、というよりもっぱら手だけでそれらしく描いてしまう。描けてしまい、さらに描いただけで満足してしまうタチがある。この辺は実際自分が美術系の仕事をやってく上で「感じる力=感覚=センス」が無いと認めてる。デッサン上手く描ける奴らは揃って満足しない、常に上だけ見て飢えてるような姿をしている。アトリエの画家やってる先生が言うには「8割方完成しかけたところで躊躇無く全部消して描き直せる奴は天才だ。」「僕は自分で描き始めて十秒で完成像が見えて、退屈に思えるから天才だ」という。デザインという仕事上は期限が有り、それに対しての妥協、「2割の力で8割の結果を出す」ようなやっつけ方が求められる。しかし、それに際限の無いアーティストという生き物に対し私は畏怖を感じずにはいられない。
感覚を鍛えることは上達に必須だ。しかし、それだけではなく手の技術が追いつかないと上手くならないので、「とにかく枚数描け」というのは手を鍛える上で有効だし、地道なパースレーションによる賜物である。ならば感覚の方はどうだろうか?それは本当に「才能」以外無いのだろうか?答えは否、本当に全てが才能に依るものであれば「美術大学」など存在する意味が無い、元々才能ある者が専門学校で技術だけ取得すれば済む話だ。感覚というのは変化する。変化するからこそ絵が変わる。しかしそれが必ずしも良い変化とは限らないし、最終的には受け手の好み・時代にウケるかどうかという所まで落ちる。だからこそ生活環境・人付き合い・その他様々な経験から自分の感覚を変化させ、その中で手を同時に動かし作品を産みそれを世に出し、その反響しだいで試行錯誤していくことで才能の壁は越えられる。ある程度の実践を積めば感覚的に「コレはウケる/ウケない」のだいたいの見通しがついて、それが見え始めるのが「プロとしてのスタート」だと思う。
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